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合評会コメント

中野剛志著『国力論』以文社(2008)

および、同著『経済はナショナリズムで動く』PHP研究所(2008)

現代経済思想研究会(2009.5.16.)

橋本努20090518

 

 

 博士論文を元に平易に書かれた経済思想書として、いずれも小著ながら、凝集された内容と単純明快なイデオロギー的主張をうまく組み合わせていて、とてもインパクトがある。以下に合評会当日に私がコメントしたことを、少し修正しながら記していきたい。

 

 

 

1. 経済ナショナリストは、構造改革をどう捉えるか。

 

 この10数年間で、立法過程に大きな変化が起きている。例えば「食育基本法」のように、法を偽装した「共通善」が国家の理念として掲げられるようになり、あるいは常識的な言語でもって、議員立法の手段でエリート対抗的な法律が作られるようになった。小泉構造改革によって、内閣主導の国民的ポピュリズムが可能になったためである。これをもって、リベラル・エリート層支配に抗する国民的ナショナリズムの隆盛、とみることもできる。しかし中野氏は、構造改革論が、「共同体的な日本的経営」「官民の密接であいまいな相互依存関係」等々の「国力の源泉」を解体しようとした、と批判する(『経済はナショナリズムで動く』179ページ)。構造改革に対する評価は手厳しい。

けれども、構造改革は、別の意味でナショナリズムであり、中野氏のいうナショナリズムと、理念的カテゴリーを共有するのではないか。

 ところが問題は、中野氏のモデルでは、ナショナリズムとは、内容において国富を目指すと同時に、方法において個人主義を採らないもの、とされるので、内容において国富を目指すが、方法論的個人主義を採用するような「新自由主義」の経済学者は、ナショナリストとは言われないことになってしまう。これでは、定義において、ナショナリズムの一部しか包摂しない。問題を別の観点から言えば、アメリカの新保守主義思想をどう考えるか、という問題がある。

 この定義の問題は、重要である。以下の論点6で述べるように、中野氏のナショナリズムは、国家と個人の緊張関係をどう捉えるか、という問題と関係してくる。

 

 

 

2. ナショナリズムの定義の「途上国性」をどう捉えるか。

 

 『国力論』でナショナリストとされる思想家のうち、リスト、ハミルトン、ミュルダールは、途上国の思想としてナショナリズムを考えた。ではナショナリズムは、後進国で厚い理念として語られ、先進国化とともに、薄い価値理念になっていくのか。ヒュームの場合は、あきらかに、ナショナリズムの理念内容が薄い。ヒュームの場合、「友好」の理念が愛郷心を超えて愛国心を形成するということだが、同じ「友好」の理念は、現在、「愛国心」を超えて、「国際的友好関係」へと向かっている。

本書で先進国のナショナリストの代表者とされるのは、マーシャルである。『国力論』は、マーシャルのナショナリズムの特徴を二つ指摘している。一つは、マーシャルは、リストのナショナリズムを認めたということ。しかし、マーシャルは、リストのナショナリズムが、途上国ドイツにおいて有効とみなしたのであって、イギリスにおいても有効な思想理念だとは考えなかった。もう一つは、マーシャルの騎士道精神が、共同体全体の騎士道精神を刺激する、というもの(168頁)。ここが最大の論点だが、マーシャルがナショナリストであるとして、その道徳は、個人の騎士道精神という、個人主義的な道徳を媒介として、はじめて成り立つ(あるいは刺激される)ということである。ここには、ナショナリズムと個人主義の緊張関係がある。

私の解釈では、マーシャルから得られる教訓は、ナショナリズムは、たくましき個人道徳を基礎としなければ成立しないということであり、このことは、人々が個人主義を脱してナショナリストになったほうが、国力が増大するわけではないことを意味している。国家と緊張関係に立つ個人主義道徳がないと、先進国の国民国家はうまく運営できないのである。

 なおこのほか、『国力論』で先進国のナショナリストとされているのは、ケインズ、J.ロビンソン、クヅネッツであるが、いずれもステイトと経済成長の関係を論じているだけのようにみえる。これらの経済学者がナショナルというのは、ステイトである。したがって本書が主張するナショナリズムの有効性は、マーシャル解釈に大きく依存している。

 

 

 

3. ナショナリストが掲げる価値のアイテムは、いずれもナショナルな境界を越えていくのではないか。

 

 『国力論』であげられているナショナリズムの価値理念は、文化、道徳、先人の遺産、軍事増強、友好、人々の常識の活用、職能集団という基盤、などである。しかし例えば、文化について言えば、日本文化を外国人が担うことに私たちはますます寛容・歓待する態度を持っているし、仏教はすでに日本文化を超える普遍性をもっている。道徳も、国境を越えて普遍化できるもの(例えば「無私の態度など」)がたくさんある。先人の遺産である物作りの精神などは、日本企業の多国籍企業化をつうじて、ますます外国人に継承してもらうことが求められている。友好の道徳は、愛郷心から愛国心へ、そして国際親善へ、と向かっている。このように、ナショナルな価値とみなされているものの多くは、すでにナショナルな境界を超えて広がっているので、この種の価値を真剣に追求すると、私たちは国際的な人間になり、その実践は、やがてナショナルなものを乗り越える体制の道徳的基礎を提供するのではないだろうか。ナショナリズムの徹底は、トランス・ナショナリズムになると思う。

 もう一つ、ここで一つだけ、反論がある。『国力論』は、リバタリアニズムをナショナリズムの思想に含めていないが、しかし戦時中の日本では、山本勝一のようなオーストリア学派のリバタリアンが、日本の道徳教育を担当し、国力の増大を真剣に考えていた。これに対して反対に、長谷川如是閑のような職能集団主義者は、職能集団を基盤にして反政府の立場をとっていた。だからナショナリズムは、いつでも職能集団を基盤としうるわけではない。

 

 

 

4. 日本の社会科学はナショナリズムを前提としてきた。

 

 おそらく1980年代になってから、日本の官僚エコノミストたちは、これまでのようにリストやスミスやシュンペーターなどの経済思想を基礎とすることができず、普遍的な近代経済学を基礎とするようになっていった。とすれば、いまの官僚は、日本のナショナリズムを政策の理念として考えていない、ということである。これに対して中野氏の『国力論』は、戦後日本の王道たるナショナルな経済思想を再生しようという狙いがあると思う。

 戦後の日本では、リストとスミスが盛んに論じられ、これに対してメンガーの翻訳は遅れた。また、シュンペーターはメンガーの方法論を批判して、シュモラーなどのドイツ歴史学派の方法論を積極的に擁護した。こうした擁護論は、戦後の日本において、経済ナショナリズムの哲学的基盤となってきた。しかしいま、こうした系譜を再生するといっても、それは単なる再生では物足りない。もっと独創的な仕方で、哲学的基礎を再構築する必要があると思う。これは探求に値する。

 

 

 

5. ナショナリズムは、独自の方法的問題を抱えている。

 

 経済ナショナリズムは、政策内容としては、保護貿易主義だけでなく、その反対の政策も認める思想である。経済自由主義も、場合によっては国力増大の理念に結びつくからである。とすれば、政策内容の差異によって、経済ナショナリズムを定義することはできない。では何で定義するのかといえば、それは「経済成長のための最適な政策を提案し実行する」際に、たんなるステイティズムではなく、かかる政策を、実践においてエネルギッシュに達成するために、政策担当者や国民に対して、一定の情念の動員を求める点である。その情念が激しく現れる場合に、その政策はナショナリズムの政策とみなされる。反対に情念が薄いところでは、たんなるステイティズムの政策とみなされる。例えば、資源ナショナリズムとは、希少資源をめぐる過剰な争奪戦を戦うことであり、理性的な経済取引とは言えない非合理的な価格づけなどの要素を多分に含んでいるので、経済ナショナリズムの典型例となる。

 さて、一定の価値観点から国民国家の状態を最適化する政策がステイティズムであるとして、その価値観点に加えて実践上の情念喚起を伴う政策言説がナショナリズムの本質であるとすれば、国力の増大は、すべての場面でナショナリズムを必要としているわけではない。また、ナショナリズムは、どういう情念がつぎ込まれたかについての「語り」に依存するので、採用されなかった別の政策が、もっとすぐれたナショナリズムの「語り」を含む場合に、問題が生じる。採用されなかった政策のほうが、もっとすぐれたナショナリズムであったかもしれないからである。しかしナショナリズムは、なにがもっともよい政策であるかを、理性的に絞り込むことができない。ナショナリズムは、「情念的な語り」の良し悪しでもって、事前の政策を判断する傾向にあり、本当に国力を増大するための政策を、実質的に判断することができないかもしれない。そういう方法的問題を抱えることになる。これは、解釈学的な経済学が抱える根本的な問題でもあるだろう。

 

 

 

6. よい経済ナショナリズムとはなにか。

 

 以上の問題提起で、二番目と六番目は関係している。それはつまるところ、「よい経済ナショナリズムとはなにか」ということになる。経済ナショナリズムの最も単純な理想は、政策担当者と国民の双方が、以上に上げたような諸々の価値アイテムにコミットメントして、ナショナリズムの強力な情念に突き動かさせる場合に、国力が最も増大する、というものであろう。これはしかし、マーシャルやウェーバーのナショナリズムではない。

私は、マーシャルとウェーバーを解釈する際に、次のように考える。すなわち、政策担当者と国民の多くが、ナショナリズムと一定の緊張感をもって自らの個人運命のプライドを築いた時に、はじめてナショナルな経済は成功するのだと。マーシャルが言うように、騎士道精神と共同体の弁証法的関係こそが重要ではないか。もしそうだとすれば、経済ナショナリズムの理想モデルは、たんに系譜学的に発掘すればよいというのではなく、次のような思想史評価をもってモデル構築されなければならない。すなわち、リストやシュモラーやハミルトンやミュルダールは、途上国のナショナリストであり、国家と個人の緊張関係を十分に認識できなかったので、ナショナリズムの成熟した理想を描くことができなかったのだ、と。これに対して現代の理想的な経済ナショナリストとは、マーシャルやウェーバーの考えを継承して、国家と個人の緊張関係を認識し、かつ実践できる人なのだ、と。このような学説史的評価が必要ではないか。

 

 

 

 

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現代経済思想研究会(第2回)のご案内
 
・下記の要領で第2回研究会を開催いたします。
・終了後、懇親会も開催いたします。ぜひご予定にお組み入れ
いただけますと幸いです。
 
●日時:2009年5月16日(土曜),午後1時30分より
●会場:東洋大学・白山キャンパス:2号館3階・第1会議室
 http://www.toyo.ac.jp/access/hakusan_j.html
 http://www.toyo.ac.jp/campus/hakusan_j.html
 
●セッション
「合評会:中野剛志『国力論――経済ナショナリズムの系譜』以文社、2008年」
 http://amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4753102610/econthought-22
 
関連文献:
 中野剛志『経済はナショナリズムで動く――国力の政治経済学』PHP研究所、2008年
 http://amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569703186/econthought-22
 
討論者:
 若田部昌澄(早稲田大学政治経済学術院)
 橋本努(北海道大学経済学部)
 佐藤方宣(大東文化大学経済学部)
司会:
 太子堂正称(東洋大学経済学部)
 
・なお当研究会はご所属や身分、専門の別を問わずどなたでも
ご参加いただけますが、配付資料や会場準備の関係上、
可能な範囲で事前のご連絡をお願い出来ますと幸いです。
当日になっての連絡でも結構ですので、どうぞご協力お願い
いたします。
 
※ 連絡先:世話人代表・佐藤方宣(masasato[at mark]ic.daito.ac.jp).
※ 研究会の詳細については情報サイトもご参照ください.
  http://econthought.net/